「風立ちぬ」はポップコーンの手を止める

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※ネタバレは極力していませんが、多少あるのでもし気になる場合は読まないで下さい。

公開初日の7/20と今日とで「風立ちぬ」を2回観て来た。
立て続けに観たのは作品としてすぐに2度目が観たいと思う純粋な理由が一つ、そしてもう一つはある事を確認しに行くためだった。
これについては少なくとも劇場を変えて2回以上観なければ納得の出来る事ではなかった。

本作は全ての音がモノラルで設計されている。(※モノラルの説明については色々書いてあるので割愛します。)
これは公開前から知らされていた情報であり、僕は多分人生で初めて大勢のお客さんと共にモノラルで長編映画を観た。
だが、モノラル自体がどうという事ではない。以前僕が音楽を担当した「巨神兵東京に現わる」も同様にモノラルで設計された経緯もあったので、音の出来心地に衝撃を受けたわけでもない。(特撮展版がモノラル、「エヴァQ」併映、劇場版が5,1cnサラウンド。)

以前何かにも書いたが、本来モノラルは人の耳に届きやすいという性質をもっている。
AMラジオが未だにモノラルなのは(以前はほんの短い間だけステレオ時期があったが、すぐに戻った。)その内容が会話中心である為とも言われている。FMはそれと差別化されステレオになり音楽中心になったとも言われる。
けれど、この事もそれだけでは「風立ちぬ」という作品を評する上で一つの項にしか過ぎない。

僕の自宅は東京の西の外れの多摩にあり、公開初日には土地柄か家族連れや高齢者が多かった。休日の夕方という時間的な事もあっただろう。
一般的なシネコンでいつもの様にポップコーンと飲み物を買い、劇場に足を運ぶ。
長い予告が流れ、例のごとく映画泥棒が薄暗い中踊り出す間、前の席では子供がはしゃぎ、斜め後ろからは高齢の爺さんの咳払いが聞こえる。
しかし、映画が始まり暫くするとある事に気づいた。劇場がいつもより静かに感じたのだ。
勘違いかと思い、もう一度回りを見渡した。だが、僕が今までイメージしていた劇場に於けるある程度の雑音。それが聞こえてこない。
衣擦れや飲み物を飲む音、咳払い、子供の声、時間が経つ程にそれらは消えて行った。

モノラルの音声はスクリーンの中心に設置されているセンタースピーカーのみから音声が発せられる。
現在の主流である5.1chサラウンドの様な「包まれる」音像とは対極を成すものだ。
無論劇場はサラウンドに対応しているので回りには山ほどスピーカーがある。しかし、鳴っているのは画面の中心にあるたった1つのスピーカーだけ。
一般的には力弱く、広がりが無いと認識されている、あのモノラルの音だけだった。

この作品を観ている間、僕を含めた観客は全員が無意識ながらも同時にある行為を行っていた様に思う。
それは作品を観ている間出来るだけ音を立てない、いや、立てたくないと感じ、精一杯静かに「観る」事だった。
余計な音を鳴らせばたちまちこの場が破壊される様な優しい緊張感が漂っていた。
そこには強いながらも、儚げで、足りない様な足りている様な、言葉にするとどうにも説明出来ず口惜しいが、画面の中央からのみ聞こえる音と、映像、そして物語を全て汲み取ろうとする様な慈しみが在った。子供も大人も、平等に。
誰とも無く、声を、動きを鎮め、この作品を両掌に受け止めて、いつしか観客はこの作品を「観る」ではなく「見守る」様になっていく。
そしてその事はこの作品の持っているテーマと十分に呼応する。

買ってきたポップコーンは結局手が付けられず、そのまま最後まで肘掛けに居座った。

で、日が変わってそんな体験を反芻しながらも、生来根性が曲がっている僕はどうにも懐疑的になり、今日も劇場を変えて観に行ったという次第である。
けれど結果は同じであった。
平日の早朝、しかも初回だったので客層は随分異なっていたが、皆一様に二郎の、菜穂子の物語を繊細に受け止めていた。

こんな手法を使う事は現在の邦画ではまずあり得ない。
そしてそれを許容してくれる制作システムは日本では更にあり得ないだろう。
誰もがデジタルのサラウンドに慣れ、いつしかそれがスタンダードとなり、今やそれでなければ成らないというルールが厳然と存在する。
(突っ込んだ言い方をすれば、5.1chであれば音が良い、と誤認する人も未だ数多くいるのだ。)
かくいう僕も、手掛けた作品の多くは5.1chになってきている。
無論、それ自体が悪いと言っているわけではない。
問題はその通例に何の疑問も無く、乗ってしまっている事だ。

宮崎駿氏は1941年(昭和16年)生まれの72歳、鈴木敏夫氏は1948年(昭和23年)生まれの64歳。世間的には老人と呼ばれる様な年代だ。しかし、彼らの方が僕らの様な若い世代よりも一段と快活で瑞々しく、新しい発想で作品を作っている。善し悪しでは無く、思考したかどうかの違いだ。これがもし同年代の作家が作ったものであれば僕はもっと直情的な悔しさを持ったかもしれない。が、彼らは遠い。年齢なんかではなく、作品的に。伍していく事などまるで想像が付かない。

この作用を当人達が最初から想定していたかどうかは知る由も無いし、実際日本中の劇場で毎度毎度そうなるわけでもないだろう。
もしかするとこれは僕だけの身勝手な妄想であるだけかも知れない。
けれども、制作に従事するものとしてこういう作品を見せられて落胆するのは事実だ。
慢心があるのはむしろこちら側だ。

作中の二郎はずっと苦悩していた。そして諦観と達観が入り交じった様な顔で飛行機と菜穂子と対峙した。
「限られた中で考え続けているか」と問われる様な作品だった。

僕個人の「10年」が始まっているのか、終わっているのか、途中なのかは今はまるで分からない。

この映像は飛行機狂の友人から教わった1933年の動画だ。
Stipa-Caproni スティパカプローニ。あのカプローニだ。
知恵を絞ればこんな形でも空を飛ぶ事が出来る。

※最後に個人的に観ながらとったメモを備忘録として。
・眼鏡の作画は素晴らしかった。どんなに遠くても輪郭や眉毛を常に気にしている。二郎の実際はもう少し大きいであろう目を想像させるところも。当たり前かも知れないが。
・音楽も意欲的。ポリリズム(曲名・隼班)あり、紙飛行機のアクションシーンでの絵合わせ(曲名・紙飛行機)。
個人的には「君をのせて」の冒頭メロディを彷彿とさせる3拍子(曲名・菜穂子)に思わずニヤっとした。

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東京駅プロジェクションマッピング「TOKYO STATION VISION」DVD明日発売

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9月に東京駅丸の内駅舎保存・復原※工事の完成を祝う記念イベントとして行われたプロジェクションマッピング「TOKYO STATION VISION」。
僕が音楽監督を務めたこの作品が何とDVDで発売されます。
こういったインスタレーションが映像作品として発売されることは中々無いそうです。

2012年12月25日より東京駅近隣地区限定にて販売開始・2013年1月25日一般発売予定・1575円(税込)

という事で、とりあえずは東京駅周辺での発売ですが、来月には全国発売されます。
マルチアングル対応なので、まるで会場にいる様な気分に

音楽もこのDVD用に新たにミックスしてありますので、ご堪能あれ。

そしてビックリする程安い!!
1575円(税込)なのでプレゼントにも最適!!

この機会に是非どうぞ。
http://ow.ly/gkOeh

【NHKエンタープライズHP】
http://www.nhk-ep.co.jp/gekiteki/


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「007 スカイフォール」の音楽が何故素晴らしいのか

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※このテキストは現在公開中の作品のネタバレを少々含む(配慮はしてあるので、鑑賞前でも大丈夫だとは思いますが)ので未見の方は遠慮して下さい。

「007 スカイフォール」を観た。

ちょっとこれを書いている今も整理しがたい程の衝撃を受けてしまった。

観ている途中あまりの凄まじさに話に入っていけなくなり、完全に呆けてしまった。
アクション映画というジャンルにおいて、これはもう、一つのゴールに到達したと言い切ってしまって良いと思う。
それほど圧倒的な作品だった。

本作は、ともすると一度観ただけでは音楽の凄まじさが全く伝わらないかも知れない。
一度観て印象に残るのはモンティ・ノーマンが作曲した「007のテーマ」位だろう。

しかし、それで良い。
それこそが最も脅威かつ映画音楽の新たな地平を指し示している。

この映画はDAWによる打ち込みの音楽とフルオーケストラが混在するという映画音楽の中でも流行りのスタイルを取っている。この両方を本作の音楽をつとめるトーマス・ニューマンが全て自作しているというわけではないだろうが(そんな事されていたら、もう立ち上がれない。)、やはり全ての統括をしているはずだ。
トーマス・ニューマンといえば映画音楽、ひいては作曲家として世界を代表する作家であり、「ショーシャンクの空に」、「アメリカンビューティー」、「ファインディングニモ」、「マーガレットサッチャー 鉄の女の涙」など、その代表作は枚挙に遑がない。いわゆる人間ドラマを見せる映画のスコアを書く人物として広く知られている。

だが、この作品は全く異質だ。

アクション映画における劇伴の重要さというのは個々を含んだ、場面全体の感情の差し引きだと言える。特にこの手のエンターテインメント作品においては、俯瞰的視点、つまり今登場人物がどの様な状況下に置かれ、それがどれほどの劇的感情で進んでいるかを決定する様な音楽が有効になる。

主人公・ボンドが立っている。
その背後には銃を持った敵が差し迫っている。

この様なシーンに音楽を付ける時、どういう音楽を付けるのが最も適切であるか。
仮にその敵が今正にボンドの背後1メートルに迫っている時、音楽は矢継ぎ早に鳴り、激しくなっていくだろう。
しかし、これが100m先だったとしたら、音楽はまるで心臓の音の様に低く、次に迫る展開を予期させる様な重厚なサウンドになる。
そのような「状況」に表出する(観客を含めた)「場」の感情に音楽を当てていくのがアクション映画の劇伴の常套句だ。

20世紀初頭~中期に活躍した作曲家スコット・ブラッドリーはMGMの代表作(奇しくも本作もMGM制作である。)「トムとジェリー」において、2人の主人公全ての動きを見ながらオーケストレーションを施したと言われている。従って録音も絵合わせ。オーケストラの全員に映像を見せ、一挙手一投足に音楽を合わせた。これはアクション映画として最も高度かつ困難な作曲、録音の部類と言える。現代の映画音楽はこういった手法を取る事はあまり無い。基本的には作曲した数ある楽曲を先に提出し、それを画面に当てはめていくのが一般的になっている。
この事実を知った上で、本作を観ると如何にこの映画の劇伴が凄まじい方法で作られているかを思い知る事になる。

端的に本作の劇伴を説明すると、この映画は全ての事象に音楽がリンクしていると言える。
登場人物の感情、状況の緊迫感、カットの移り変わり、小道具、大道具の動きに至るまで。細かいところでは主人公が銃を構えた瞬間にそれまで鳴っていた音楽に新たな楽器の音色が加わり、音楽のステージが一つ上がる。

これを総尺142分58秒、全てにおいて行っているのだ。

本作はほとんどのシーンで音楽が流れている。逆に流れていないシーンでは意図的に音楽を排している事が見て取れる。つまりそのシーンにおいて「無音」が最も有効な音楽になる。これは観なければ納得のいかない意見かも知れないが、一度観ると誰しも頷くと思う。
特に冒頭のシークエンスにおける劇伴の素晴らしさは筆舌に難い。打ち込みとオーケストレーションが過不足無く交差し、場面展開に全てリンクし、あれだけの大活劇を最も魅力的に魅せている。そして登場するいくつもの楽曲がシームレスに繋がる。bpmや調性、音色の差異も綿密に計算されている為、観ている側には全く違和感を持たせない。果たして、こんな作曲、編曲、録音が可能なのだろうか。
そして、これだけ複雑な音楽的思考を張り巡らせながら、ここぞという時に「007のテーマ」を違和感無く流せる天才的な所業。正直、アクション映画の劇伴として一分の隙も無い。

言い換えれば、この映画における音楽は142分58秒という長い長い1曲とも評せるのだ。

冒頭に述べた「一度観て印象に残るのはモンティ・ノーマンが作曲した「007のテーマ」位だろう」という一文は決してこの映画の劇伴を卑下するフレーズではない。むしろ最大限の賛辞なのだ。この文を読む前に本作を観た方々は、この142分の間に音楽が一体何曲流れたか分かるだろうか。あれだけ大量の音楽が流れ続けながら、観ている側に全く食傷感を抱かせず、むしろ、音楽によって無意識的に映画のテンポを操作されている事に気付いているだろうか。印象に残らないと感じるのは、あくまで楽曲的な部分、音楽単体の話にしか過ぎないのだ。

また、音楽には「小節感」というものがある。現代の音楽は基本的には偶数に支配されており、それを逸脱するものは変拍子などと呼ばれる。(これはかなり乱暴な物言いなので、この点については詳しい文献にあたって貰う方が良い。ここでは説明は割愛する。)つまり、音楽には「据わりの良い」絶対時間が存在する。そして、それからずれると感覚的違和感を生む。
では本作の劇伴はどうやって感覚的違和感を生まずに、これだけ偶発的に起こる映画的事象に音楽を合わせる事が出来るのだろうか。

これは少々専門的かつ僕の個人的な方法論だが、仮にあるシーンで背中越しの登場人物が5秒たった後に振り返ったとするなら、僕はこれをbpm60(1分間に60回カウントされる音楽的テンポ。つまり1秒1拍。)と捉え、4/4拍子の1小節+1拍目、つまり2小節目の頭に音を足す。すると音楽的にも場面的にも自然で満ち足りたシーンが出来上がる。
あくまでこれは例であるため、これだけで万事が満ち足りるという事ではないが、トーマス・ニューマンはこういった方法を映画全編で行っているのだ。しかも大人数のオーケストレーションを施して。家でチマチマ作っている打ち込み作家とは訳が違う。
これが如何に途方もない事であるか、少しでも想像して貰う事が出来れば嬉しい。

これまで述懐した内容から推察するに、本作の劇伴が映画の編集前に全て作られたという事は考えづらい。これだけ映像と綿密な関わりを持っている楽曲群が全て偶発的に生まれる事はまずあり得ないだろう。それほど音楽が映像の意図を汲んでいるのだ。他の可能性があるとすれば監督のサム・メンデスが全ての楽曲に合わせて逐一編集していったという事くらいだが、これもまた現実味を帯びない。
ある程度の下準備とモチーフは存在するにせよ、ピクチャーロック(映画の編集が固まる意。)後にかなりの労力を費やして、映像に音楽を付けていったのだろう。膨大な数のトライアンドエラーを繰り返しながら。その予算と時間と能力が彼らにはある。
この映画の音楽がいつからどうやって何人の協力を得て作られて(現在はチーム作編曲が主流でもあるため)いったか、僕には知る由も無いが、アジアの小国の端っぱ作家をぶちのめすには十分過ぎる破壊力だった。

最後になるが、本作のサウンドトラックは買う必要が無い。正確には、買っても良いがその魅力は劇場で映像と共に体感しない限り、全ては伝わらない。これだけは自信を持って言える。
これが演出的音楽というものだ。

今まで僕のやってきた事など、まだまだ足元にも及ばない。
これから物凄い頑張ったところで果たして追いつけるのかどうか。

いやー、世界は広い。広過ぎるくらいに広い。
返す返すも本作はショックだったが、この事実を素直に引き受けて、どうにか更に新たな視点を生み出さなくてはならない。



※関係ないですが、個人的にあのオープニングはやはりこれと関連づけてしまいます。2004年のゲームですが、最もやり込んだ「Metal Gear Solid 3: Snake Eater」。
THE BOSSは泣きながら撃ちました。


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